宅間守と自閉症スペクトラム障害

5年ほど前に宅間守の精神鑑定書が出版された。

非常に分厚い本である。その記述量からしても、丁寧に、詳細に精神鑑定が行われたことがわかる。

私たちは、この鑑定書を通して、宅間守はどのような人物だったかをある程度知ることができた。しかし、多くの謎が残ったままである。特に異常心理学的・精神医学的に現在の解明されていないことが多い。

鑑定医であった岡江は次のように述べている。

私たち鑑定人は、とりあえず、こだわり、猜疑心、視線への敏感さを精神症状という項目のなかで検討しようとしている。しかし鑑定に取りかかった最初からその最後まで、逡巡し議論を重ねたのは、宅間守の示す精神症状は、私たちが日常臨床で経験したどの症例にも該当しないあまれるいは類似点もないほど、極めて稀であったからである。(p.316)

ただし、現在、自閉症スペクトラム障害について十分な知識がある者がこの鑑定書を読めば、宅間守には自閉症スペクトラム障害である可能性が高いという結論を持つはずである。宅間には自閉症スペクトラム障害の典型的な症候が多く確認できる。自閉症スペクトラム障害を抜きにして宅間の診断や行動の説明をすることは困難であるほど、明確に自閉性を確認できるはずである。

鑑定医である岡江たちが「日常臨床で経験したどの症例にも該当しない」と述べているのは、当時は自閉症スペクトラム障害(広汎性発達障害)の診断や特性がまだまだ精神科医たちに知られていなかったためではないかと思われる。

宅間守の鑑定書の中から自閉性が読み取れる記述を抜き出してみたい。この記事の位置づけは鑑定医の岡江が採取した症候・情報・治療反応性などを再解釈という方法なので二次資料を基にしたものであること、成人の段階で自閉症スペクトラム障害の診断はできないことなどから信頼性は高いものではない。自閉症スペクトラム障害の診断は3~4歳の時の観察がないと正式には診断できない決まりになっている。

しかし、解釈をしていくことは、それなりに意義のあることだと思う。診断であると誤解されないために自閉性(Autistic)という用語を以下では使用する。

1. 強姦事件と共感性の欠如

宅間守といえば、池田小学校の事件が有名だが、それ以前にも強姦、恐喝などいくつかの犯罪を犯している。

鑑定医の岡江は、強姦に関して宅間を下記のように評価している。

宅問守は、女性とまともな交際はできないと感じている。一緒に映画を見に行っても、全く楽しくなかった。つまり女性は性欲を満たす手段であって、情緒的交流は持てないのである。強姦についても、嫌がっているのは上辺だけで、本当に女性がダメージをうけていることは理解できない。金にしようと告訴する女性がいるだけだと思っている。強姦だけでなく、ときにみられた残虐に性器などを傷つける行為に対しても何らの反省や後悔もない。女性との間での情緒的な交流は持つことができず、さらに同情心や共感性も全くない。(p.309)

箇条書きにまとめると次のようになる。

  • 情緒的交流が困難
  • 強姦で女性が嫌がっているのは上辺だけで女性が精神的ダメージを受けていることは理解できない
  • 強姦事件は金にしようと告訴する女性がいるだけ
  • 残虐に性器などを傷つける行為に対しても何らの反省や後悔もない
  • 同情心や共感性も全くない

情緒的交流が困難・他者理解ができない・共感性がないといった点は、自閉性そのものである。この特徴だけでも、宅間を自閉症スペクトラム障害の疑いを持つには十分である。

他者と自己の理解が関係する犯罪は1)サイコパス、2)ADHD+反抗挑戦症、3)自閉症、4)サディズムの4つに区別すると理解しやすい。

サイコパスは人の痛みをわかるが、それによって自身の感情が動かないという点が特徴的である。従って行動が冷淡さを伴うことがあるのである。学術的にはCallous and unemotional traits(CU)と呼ばれているパーソナリティ傾向である。サディズムは人の痛みがわかり、感情も動くが、人の痛みが自身の快感になるなどの異常性がある。

宅間の場合は人の痛みがわからない、ということなので、CUではなく、自閉性(autistic)である。

自閉症スペクトラム障害の性犯罪率の高さは今更言うまでもないが、その原因となっているのは他者理解・共感性の欠如である。共感性が低い場合には、相手の女性が精神的ダメージを負うといったことが理解できない。女性側の心がわからず、性欲にまかせて強姦することになる。

宅間のように女性が嫌がっているのは上辺だけだと理解するのであれば、容易に性犯罪を起こすことになる。

2. 共感性の欠如

宅間の共感性の欠如は、鑑定医の岡江以外にも指摘がある。平成6年1月27日から2月3日までに計3回外来通院で宅間を診察した精神科医は次のように述べている。

この方の場合は非常に話が理路整然としておって、態度は冷静で、話してる内容もよく分かるし、考えの流れも非常に理解しやすい、つまり奇異な感じがしない、分裂病に見られるような奇異な発想、奇異な思考が見られない、全く見られなかった。(p.106)

「奇異な」とは統合失調症的やそのスペクトラムにを表現する用語で、日常後の変な感じとは異なる。英語では"bizarreness"である。宅間は統合失調症スペクトラムにある奇異さがなかったという証言である。

その代わり指摘されているのが、共感性の無さである。

非常に共感性がなくて、攻撃性を持っておって、気分の変動が大きい。その半面、刺激に対して敏感であって、その結果として非常に疑い深くなったりとか猜疑になりやすい。(p.106)

  • 共感性に乏しい
  • 攻撃性がある
  • 気分調節が困難(いわゆる気分の「むら」)
  • 過敏性
  • 猜疑的

病歴をたどると、躁状態にあった時があるようなので、気分の「むら」だけではなく「波」もあったのかもしれない。

猜疑的というのは、妄想性パーソナリティ障害ような状態であるため、パラノイアックと言ってもよいだろう。宅間の場合には、強姦事件の際にも「強姦事件は金にしようと告訴する女性がいるだけ」と述べていた。

この言動からもわかるように、自身への被害に関してはかなり敏感であったようだ。どのようなことも被害的に捉える傾向にあった。鑑定書の端々に猜疑心が強いことが書かれてあるが、性犯罪にも同様の反応をしていた。

3. 感覚過敏

宅間守には感覚過敏があったようである。

「共感性がない」ことである。「人が悲しんだりするのが、全然悲しくない」。「女とセックスすることは好きやけど、途中のプロセスは全然楽しくない」 他に、視線や音に対する敏感さは、他の人と比べて「過剰」なことである。(p.261)

共感性の欠如を述べる以外に「視線」と「音」に対して敏感であったと述べられている。この「視線」と「音」をまとめて過敏さにまとめる鑑定医の岡江の解釈は現代的な精神医学で再解釈する必要がありそうである。

A. 視線

他者の視線への恐怖は不安障害の一つとみなされる。

日本では伝統的な対人恐怖症だと捉える説と、DSMやICDなど現代の標準的な診断基準に従い社交不安の一部であると捉える捉え方がある。どちらにしろ、恐怖症・不安の症状であると捉えることには変わりはない。

ただ、自閉症の易刺激性が関連した視線に過敏症をもっていた可能性は否定できない。岡江は視線の話を書く時には感覚の過敏さについて触れていて、社交不安障害や対人恐怖症といった不安・恐怖の症候として、視覚に敏感になることは捉えていない(その範疇を超えるもの)として記載しているように読める。ただ、十分な記述があるわけではないため、再解釈の限界感じるところである。

B. 音の感覚過敏

音の感覚過敏は、自閉症に見られる感覚過敏の一つである。

旧来の理解では、音への過敏性は不安や恐怖の一部だと解釈されてきた傾向がある。非常に不安が高く、ビクビクしていると、少しの音でも大きな反応をしてしまう、といった感じとような理解がされてきた。

自閉症には不安障害が併存することが多いことから、自閉症概念が普及する前までは、自閉症の症状であっても、不安障害・恐怖症の症状だと考えられていた。

しかし、自閉症概念が広まった現在では、感覚過敏と不安とは別個の症候だと捉えるのが標準的である。鑑定医の岡江は自閉症に詳しい精神科医ではなかったため、従来通り、感覚過敏を不安・恐怖症と捉えたのではないかと思う。

C. 臭覚の感覚過敏

岡江は次のように述べている。

臭いに対して生理的、知覚的な過敏さがあるという印象も受ける。(p340)

宅間はバスの運転手をしていた時期があるが、その時に臭覚に関して乗客とトラブルを起こしている。

平成八年七月...バス...一番前の座席に座っていた女性の乗客に香水の匂いが強いので、気分が悪い、後ろの席に行くように、と...宅間が、運転手にも客を選ぶ権利がある、等暴言を吐いた…

これらのことから宅間には臭覚過敏があった可能性がある。

4. こだわり

宅間は非常にこだわりが強いと、鑑定書では何度も指摘されている。鑑定書を通して「こだわり」という言葉33回登場している。

自閉症のこだわり

自閉症のこだわりは病理学的には常同性の一つの表現だと考えられている。そのため、自閉症スペクトラム障害におけるこだわりは、比較的幅が広い。

習慣へのこだわりは、例えば、着る服が1種類であったり、道順が決まっていたり(一番近道だからというわけではなく)、食べ物へのこだわり=好き嫌いが多く食べられるものが決まっているなどである。肉は食べられないが、餃子は食べられるというのは比較的よくあるが、王将の餃子しか食べられない、というのもある。普通の人が考える好き嫌いのレベルを大きく上回る好き嫌いが自閉症の症状では存在する。

思考では反芻思考と呼ぶものがある。同じ事を何度も思い出し、その記憶に捕らわれる状態である。

思考への捕らわれは、死ぬような体験を思い出すPTSDとは異なる。強迫性障害に見られる強迫思考とは区別するのは難しい。症候として強迫性障害の強迫思考と自閉症スペクトラム障害のこだわりは重なる部分があるが、強迫性障害では説明できない部分が自閉症のこだわりには存在する。

精神症候だけで両者を弁別するのは難しいため、治療反応性で区別するというアイデアは存在している。自閉症を併存する強迫性障害と、併存がない強迫性障害ではSSRIなどのセロトニンへの働きかけをする薬の効果が異なることがわかっている。自閉症が併存した強迫性障害の薬物治療は反応しにくく、心理療法の反応性が悪いこと(Murray et al. 2015)がわかっている。

薬物療法での成績の違いは、関連する脳の部位が異なるからであろう。強迫性障害心理療法は「暴露」(Exposure)が使われる。したがって、自閉症群の強迫は脱感作の原理では治らないということであろう。

宅間守のこだわり

鑑定医の岡江は次のように述べている。

猜疑心、視線や音への過敏さなどを含め、全体の基調をなしているのは穿鑿(せんさく)癖・強迫思考であることは間違いない。しかし、日常臨床で出会う強迫性障害とは相当にかけ離れており、その疾患概念には収まりきらない。(p.355)

岡江は宅間のこだわりを強迫性障害として捉えようと強いたが、強迫性障害では説明できないと述べている。

宅間のこだわりとはどのようなものだったのか、引用する。

自意識過剰で自分の行動にこだわりすぎる。他人の行動にこだわりすぎる。他人の行動にも少しのことで不ゆかいに感じたりし、ハラが立つとやり返さないと気が済まない(p.103)

小学五、六年のころであった。「ソフトボールの試合」で「三塁守っ」ており「球がいつ飛んでくるか分からんような状況」だったが、「あの漢字は何やったかなあ」と「こんな(空に指で文字を書く身振りをする)やってやってる」。漢字を「頭の中で浮かんでるだけやったら」、「気が済めへん」。「一々書き表さな、気が済めへん」。後で同級生に「こんなやつとったやろう」と言われた(p.107)。

この部分は反芻思考に最も近いように思える。

そもそも、宅間には強迫性障害があったのだろうか。潔癖症は確認されているようである。

潔癖性がある。
小学高学年から汚れを気にするようになり、十代の終わりぐらいからより潔癖になった。共同便所の下駄には履き替えなかった。大便後、必ず石鹸で手を洗うようになった。外出後も、必ず石鹸で手を洗うようになった。公衆便所では、水しぶきがかかるかもしれないので大便を流さずに出たり、大便がついているかもしれないので水道の蛇口は閉めなかった。
(中略)
一人暮らしになると、少々の部屋の汚れは平気であったが、布団、枕は清潔にしておきたかった。拘置所や精神病院では、潔癖感や衛生感はあまり気にならなかった。この潔癖性は、不潔恐怖といえる段階に至っていない。やはりこの背景には、大便が付着している可能性があるというこだわり、つまり穿鑿癖・強迫思考がありそうである。そして、臭いに対して生理的、知覚的な過敏さがあるという印象も受ける。(p340)

この程度の潔癖度合いであれば、強迫性障害と診断することは難しいかもしれない。岡江の記述が興味深いのは「生理的、知覚的な過敏さがある」という点である。強迫性障害自閉症スペクトラム障害のこだわり(常同性)が強迫性障害的に表現されたものを症候のレベルで弁別できる可能性を示している。

5. 秩序と権力関係

奈良少年刑務所でも特に暴力的、反抗的であったわけではなかったようである。数回入院したJ病院では、何らのトラブルも起こさなかった。現在の拘置所内でも、少なくとも反抗的、挑発的な言動はないようである。(pp.304-5)

特に権力的上下関係の明確な社会的枠組みの場ではむしろ従順であった。このような枠組みのない場での粗暴さ、暴力とは好対照をなしていた。(305)

このような秩序や権力関係に従順であるところは素行障害や反抗挑戦症が併存したADHD自閉症が弁別できる症候である。

反抗挑戦性障害・反抗挑戦症は目上の人への反抗心・反抗的行動を特長のことである。特に、権力関係の下位にいる際に、上位への者への反抗が行う。

一方で、自閉症の場合はルールがきっちりと明文化されている場合にはそのルールに従う傾向にある。自閉症の子どもは学校の時間割が決まっていると安心するが、突然時間割と違うことを先生がやり始めると、癇癪(いわゆるパニック)を起こす、という傾向があるが、これと同じである。

自閉性のコミュニケーションの障害は、対人間で直観的に形成されるルールが読み取れないため問題が起こる。ルールが明文化されてタイプの秩序では、字義通りに理解できるため、秩序を守ることができる。

特に圧倒的な強者がいて支配される場合には、従順さを見せる。その傾向がある者の暴力性は弱者、子どものように力の弱い者に向かう傾向があり、小学校で子どもを殺すという行動とも矛盾がなく一貫しているように思える。

6. 造語

宅間との会話では頻繁に造語が登場したと岡江は述べている。

面接を重ねてもどう理解してよいか迷い続ける問題があった。
慣れてくれば宅間守はむしろ饒舌である。抑揚もあり、奇妙な話し方とは感じない。コミュニケーションに問題があるとは感じない。ところが、会話では普通使わないようなかなり難しい言葉や、本人の造語を話す。造語といっても精神分裂病にみられる言語新作のような言語機能の解体ではない。現在症の精神所見に記した「イヤキチ」「雑民」「列外位置」「打算で考える」「博打人生」「保守的生活」「文化的生活を営む」「現実と空想と希望的観測」「固定観念」「女を探索」「緊急避難的」「生け捕り」「製造されてきたそのものが間違ってる」「建前的なカテゴリー」などである。

造語は自閉症スペクトラム障害の特長の一つである。

6. 治療反応性

宅間は抗精神病薬の副作用であるアカシジアだと思われる症状で、病院から飛び降りてけがをしている。しかし少量の抗精神病薬が効果があったことが記録で残っている。

抗精神病薬リスパダール(一般名リスペリドン)が、ある程度の効果があった。(p.343)

本人もリスパダールを希望している。

平成12年1月6日「ここしばらく何もおこらずです・・・世の中は、だるくて嫌だと思う」。2月17日。寸苛々しています。一寸しんどいんです。何もおこしていないんですが。リスパダール(抗精神病薬)2mgにしてください。うそついたり、現実的対応が、クスリのんでいると大丈夫です」(p.118)


抗精神病薬リスパダールを服用していると、合理的に物事を考えられるようになり、「ピリピリ」がなくなり、勉強に適した頭になったように感じたので、司法書士になろうと思った。(338)


リスパダールを「二、三日」飲まなかったら、その薬を飲む前よりも「ピリピリ」が「もっとひどかった」。「イライラして夜も寝にくい」し、「視線とかピリピリ」するし、コンってぶつかったら、後で変な奴がいきなり刺してへんかなあと考えたり」した。(p.189)

2mgという比較的低用量でリスパダールが有効であったようだ。
自閉症スペクトラム障害へのリスパダール(抗精神病薬)の効果は易刺激性に有効だが、宅間にも有効であったようだ。

宅間は易刺激性のことを「ピリピリ」と表現している。

平成十一年四月から服用しはじめたリスパダール(一般名リスペリドン)は、自分に合ったという。言リピリが全然取れたような感じ」がして「ウキウキ気分」になった。市バス運転手時代から「これ飲みながら仕事しよったら、客とトラブってないよなあと思っ」た。「ピリピリ感も取れて緊張もないし、ごく普通の生活の人間やったらこういう状態やろうなあいう気持ち」だった。(p.215-6)


22日月曜に来院するのでくすりをかえてほしい。リスパダール(2mg)錠は射精しないので、1mgにしてほしい。ルボックスはあわない。リスパダール1日3錠のんだ方がよいか」。(p.121)

抗うつ薬SSRIであるルボックス(フルボキサミン)は合わないと宅間は述べている。リスパダールは効くが射精障害が起きていたと述べている。どのように服薬していたのかはわからないが、ルボックスにも射精障害の副作用の可能性があるため、原因は宅間の言うようにリスパダールが原因だったかはわからない。リスパダールの増量よりルボックスの追加の方が可能性は高そうな気がする。リスパダールの増量が1日あたり1から2mgだと良いが、1日3回2mgだと日量6mgになるので増量し過ぎである。

余談ではあるが、自閉症スペクトラム障害に有効であるとされているエビリファイ(2006年・平成18年)はこの時点(平成13年)では発売されていない。

池田小学校に至るまでの状態

リスパダールがあまり効かなくなったと宅間は述べている。おそらくリスパダールが効きにくくなったのではなく、宅間の精神状態が事件前に悪化していためではないかと思われる。なぜなら、リスパダールの効果が減弱することは一般的に考えにくいからである。

宅間は池田小学校の無差別別殺人の直前に首吊り自殺を試みている。その時のことを聞かれて次のように述べている。

「いや、全然、ほとんど飲んでなかったです。薬変えられてもうたんです。それが余計効かんかったです。リスパダールと違って、セロクエル抗精神病薬〉いう新薬に変えられたんですよ」(228)

リスパダールからセロクエルに薬が変更されたという。それで効き目がなくなり、薬を全く飲まなくなった。その後、宅間は自殺を試みていた。その自殺に失敗し、どうせ死ぬなら多くの子どもたちを道連れにし用として、自殺無差別別殺人を起こすことになる。

池田小学校の事件が起きた2001年(平成13年)はセロクエルが発売された年である。宅間に投薬される2、3か月前にセロクエルは発売になったばかりであった。新薬で何か良い変化が出ないか、と医師は考えたのかもしれない。

セロクエル自閉症スペクトラム障害への投薬は2001年段階ではMartin et al.(1999)による論文しか出版されていない。この論文は児童が対象で、症状の改善はCGI(Clinical Global Impression)を用いている。結果は有効性がなく、忍容性が低いため自閉症には使えない、というものであった。

当時は今のように電子ジャーナルで手軽に読める環境ではなかった。自閉症スペクトラム障害(当時は広汎性発達障害)の診断は精神科医の中ではまだまだ知られていなかった。加えて掲載誌は英文であり、児童青年の分野の雑誌であり、一般の精神科医が読む可能性は極めて低い。セロクエルが悪手であることは知りようがなかった。

セロクエルへの変更によって宅間はリスパダールも飲まなくなり池田小学校の事件を起こすことになるため、薬の影響も少しは考えられそうだが、最も大きな要因は本人の精神状態の悪化である。精神状態の悪化がなければセロクエルへの変更もなかったはずであり、どのみち原因は宅間にある。

自閉症スペクトラム障害の患者にはリスパダールは効くが、セロクエルは効かないというのが治療反応性での特徴である。宅間も同様の治療反応性があることが確認できた。